これについて話してみる。
アイドルのライブの話だ。
ライブは距離近いからそうなりがちだけど、これ他のコンテンツでもまあまあ当てはまると思う。
今のコンテンツ、双方向性がめちゃめちゃ強調されてて、双方向にコミュニケーションがあると楽しい!って流れになってるのでこういう「気遣い」が度々発生するな、と思う。
裏側の事情を(コンプラの許す限り)明け透けに話すと「透明性が高い!」って褒められるような流れもあるし。
なんかそういうことが常で、それでコンテンツが問題なく回ってると、出された情報のことしか考えられなくなりません?
「◯◯はあの時ああ言ってたからここはああなってるはず」
みたいな思考に知らん内になってる。
俺はなるよ。
でも「グッズの売れ行きが今後の展開を左右すること」と「ファンがグッズを買うこと」って連続した事象ではないと思う。
ファンがグッズを買わない要因は本当に色々あってそれはコントロール出来るものじゃないし、仕掛け側が出来ることはイベントやデザインなどの外的要因で購入意欲を煽れるか努力することだけだからだ。
そこには越えることの出来ない線が引かれていて、「提供者」と「消費者」であるという事実だけが横たわっている。
提供者が努力することも、消費者が意志決定することも、隣り合っているだけで分断された事象だ。
娯楽産業は心と心のぶつかり合いみたいなところがある。
でも人の心は何によっても縛ることは出来ない。
ぶつかり合った先に何があるのかを正確に知る人は誰もいない。
出来るのは誘導だけで、娯楽はその誘導と錯覚を楽しむものであるのだから、義務などという概念は存在しないし、してはいけない……と、思った。
私は割とこの提供者と消費者が分断されているって構造が好きだ。作品が見られているという感覚が強くなるからかもしれない。
初めて長文で自分の思ったことを書いてみた。
書いていく内に思考がどんどんズレていく感覚は相変わらず慣れない。
いつかこのズレが小さくなるときが来るんだろうか。