僕は名越康文のチャンネルをよく見てるんだけど、そんな話題が出てきてへぇ~と思った。
僕も自分の趣味に自信が持てないタイプだ。胸を張って好きって言えない。
自分のセンスに自信がないのだ。
センスというものはどれだけ娯楽作品を見たり経験したかで磨かれる。
俺の周りにいる人は、大抵俺より作品を沢山見ているし、何かを作るときにめちゃくちゃ取材する。
ロケハンとかまでやる。
趣味で書いてるのにだ。
すげぇ!と思う。
それは俺にとっては努力で、頑張りに相当するものだ。
凄い。俺はそんなに頑張れない。
でもみんな、努力じゃないし頑張りでもないって言うんだろうな。
俺はずーっと怠惰で、ずーっと周りのエネルギッシュさに打ちのめされてきた。
俺は一回作品を好きになるとそれのことだけしか考えられなくて、3~4年くらいそれに掛かりっきりになる。
その間は他の作品を見ることをほぼ止めて、ずーっとその作品だけを読む。
他に好きな作品が出来ることすら稀。
幼少からずっと続いてきたその習性は、インプット量において周りと圧倒的な差をつけたのだ。
俺が3~4年くらいずっと棺姫のチャイカにハマっている間に人々は断裁分離のクライムエッジとかヤンジャン版ローゼンメイデンの話をしていて、みんなどんどん新しいアニメとか漫画を見る。
自分のそんな習性を、好きが長続きするのはいいことだよね!と捉えてたけど、段々コンプレックスになってきた。
過去の名作も知らないと自分のなかに比較基準がなくなってしまうので、作品を作るときに困るのだ。
物事を吸収する時には優先順位や情報の振り分けが大事だ。
だがそれを判断する基準が俺の中にはなかった。
したがって俺の頭の中には情報と呼べるものは入っていなかった。
俺の中には「好き」しかなく、美意識や拘りといったものがほとんどなかった。
空っぽだったからか模倣は得意なのだが、新しく何かを作ることが苦手だった。
知っている作品数が少ないため、要素と要素を掛け合わせて新しいものを作るということすら出来なくなっていた。
僕の周りはみんな沢山のものを見て、経験している。
俺の「好き」だけで発見した作品や趣味なんて上位互換が沢山あって、みんなそれを知ってるんだろうなと思った。
そんな中で俺の好きな作品を発信したところで何の意味もないんじゃないか?
つい最近、「擦れてない人向けの作品」という言葉を聞いた。なんだかストンと納得してしまった。今まで見て好きだって思った作品、みんなこれだったんじゃないかと。
こんな言葉一つで表せるくらい、幼稚で狭い世界で生きてたんだろうかと。
正直自分の好きな作品や趣味に対して、こんな風に思ってしまうのは失礼だと思う。
だって作ってる人がいて、支持してる人がいるものなのに。
自己愛のあまりに他人の作品を失敗扱いとは何事かと思った。
でもやっぱり、ふとしたときにこういう不安が頭をもたげてしまう。
なので、名越康文の動画でこの話題が出て「結構そういう人いるんだな~」と思った次第です。安心したぜ。
新しい作品見るのたのし~~~ やってみたら意外と出来るもんですね。
でもなんか自分の「好き」がどんどん薄まってく感覚もあって、これはこれで不安になるな。